『いだてん』の三島弥太郎って?岩崎弥太郎や『不如帰』との関係は?

現在の大河ドラマとしてNHKで放送されている『いだてん〜東京オリムピック噺〜』にて、俳優・タレント・コメンテーターの小澤征悦さんが演じている三島弥太郎
生田斗真さん演じる三島弥彦の長兄として、スポーツに熱中する弟に手を焼く存在として描かれています。

では、この『三島弥太郎』という人物について、皆さんはどのくらいご存知でしょうか?
正直、『全然知らない…』という方がほとんどだと思います。

ここでは、『三島弥彦の兄』というだけではない三島弥太郎の魅力について迫っていきます。

激動の時代を名門一族の後継ぎとして生き抜いた男・三島弥太郎

薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町上の園(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)の出身であり、7歳の時に東京神田の小川町学校に入学します。
その後、すぐに同人社分校に通い、9歳の時には近藤真琴の塾で学びます。
13歳の時に山形県師範学校(現在の山形大学地域教育文化学部)へ入学し、17歳の時には駒場農学校(現在の東京大学農学部)に入学します。
18歳の時に成績首位により官費生として渡米し、西フィラデルフィア中学を経てマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)で農政学を学びました。
同大学卒業後にはコーネル大学大学院で害虫学を学び、修士の学位を受けるも、神経痛を発症して退学しました。

帰国後には、1897年(明治30年)の第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選します。
そして、桂太郎の後押しにより最大会派研究会の代表者を務め、桂の主唱する鉄道国有化を実現させました。
また、議員生活の傍ら、金融業に深く関与していきます。
横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)2月28日に第8代日本銀行総裁に就任します。
日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力しました。

しかし、第一次世界大戦の戦中戦後における激務をこなすも、1919年(大正8年)に急病により現職のまま亡くなってしまいました。

三島弥太郎を囲む華麗なる一族

先述した通り、弟の三島弥彦は明治期の陸上選手であり、日本初のオリンピック代表選手として1912年開催のストックホルムオリンピックにマラソンの金栗四三と共に参加しています。

また、三島の最初の妻は武士(薩摩藩士)・政治家・陸軍軍人の大山巌の長女である大山信子でした。
しかし、1年余りで離縁してしまい、1896年に20歳の若さで病死してしまいます。

大山との離別後には、公家・華族・陸軍軍人の四条隆謌の3女である四条加根子と再婚します。
その際に設けた子供のうちの長男が、小説家・劇作家の三島通陽でした。
また、娘である寿子の夫は華族・政治家の阪谷希一、梅子の夫は演出家の土方与志でした。

三島弥太郎をモデルとした小説『不如帰』とは?

1898年(明治31年)から1899年(明治32年)にかけて国民新聞に掲載されていた徳冨蘆花の小説である『不如帰』。
後に書籍として出版され、ベストセラーとなっています。
ちなみに、徳冨自身は『不如帰』の読みとして、少なくとも後年には『ふじょき』としていましたが、現在では『ほととぎす』という読みが広まっています。

片岡中将の愛娘である浪子は、実家の冷たい継母や横恋慕する千々岩、気難しい姑に苦しみながらも、海軍少尉の川島武夫男爵との幸福な結婚生活を送っていました。
しかし、川島武夫が日清戦争に出陣している間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫を慕いつつ亡くなってゆきます。

『不如帰』の意外と知らないあらすじ

あらすじとしては、幼くして母を亡くした浪子が冷たい継母、優しい父片岡陸軍中将のもとで18歳になりましたが、川島家の若い当主と結婚することになり、初めて人生の幸福をあじわうことができます。
明るい川島武男少尉と伊香保で新婚をすごして、夢のような気分でした。
しかし、夫は遠洋航海に出てしまい、気難しい姑の川島未亡人に仕えることとなりますが、一人耐え忍びます。

半年ぶりに夫に会い、ふたたび蜜月を過ごす思いでしたが、風邪から結核にかかり、逗子に転地することになります。
しだいに回復するところに、浪子に恋していた千々岩が失恋のはらいせに、伯母である川島未亡人に伝染病の恐ろしさ、家系の断絶を言い立て、武男の居ない間に浪子を離縁させてしまいます。
武男がそのことを知ったのは、日清戦争開戦間際であり、母と争う時間もないまま、やけで砲丸の的になれと涙ながらに戦場に向かってしまいます。

武男は黄海で戦い、負傷し、佐世保の病院におくられ、無名の小包を受け取ります。
送り主の浪子は武男からの手紙を逗子で受け取り、相思相愛で寄り添うことのできない状況を悲しみ、思い出の地不動の岩から身を投げようとします。
しかし、キリスト教信者の女に抱き留められ、宗教に心慰められていきます。

傷も癒え、再び戦場に向かう武男は、旅順で敵に狙撃されようとする片岡中将を救います。
凱旋した片岡中将は、病気の浪子を慰めようと関西旅行をして、山科駅で台湾へ出征する途中の武男を車窓に見ます。

浪子の病気は帰京してますます重くなり、伯母で仲人の夫人に武男あての遺書を託して、月見草のように淑やかな生涯を終えます。
訃報に接した武男が帰京の日に、青山墓地に行くと、墓標の前で片岡中将と巡り会い、中将は武男の手を握り『武男さん、わたしも辛かった』『娘は死んでも、喃、わたしは矢張りあんたの爺ぢや』と言うのです。

浪子の

あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!

ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ

というセリフは日本近代文学を代表する名台詞となりました。

家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など、当時の当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得ました。
また、浪子が夫の出征を見送る際にハンカチを振るシーンがあり、この小説をきっかけにハンカチは別れの小道具となりました。

三島弥太郎が『不如帰』の川島武夫のモデル?

この小説に登場する『川島武夫』のモデルは他ならぬ三島であるとされており、浪子のモデルは三島の先妻の大山であるとされています。
しかし、ベストセラーになったが故に、小説が真実だと信じ込んだ当時の民衆によって、継母のモデルとなった人物の大山捨松(大山信子の継母)に事実無根の風評被害があったとされています。

実際は小説とはやや異なり、大山信子の発病後に三行半を一方的に大山信子に突きつけて実家に送り返したのは、夫の三島本人とその母でした。
そんな婚家の薄情な仕打ちに大山捨松は思い悩むことしきりであり、この状況を見かねた津田梅子が、三島家に乗り込んで姑に対して猛抗議をしています。

看護婦の資格を活かし、親身になって大山信子の看護をしたのも、他ならぬ大山捨松自身だったのです。
大山信子のために邸内の陽当たりの良い場所にわざわざ離れを建てさせたのも、大山信子が伝染病持ちであることに気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるように、との思いやりからでした。

大山巌が日清戦争の戦地から戻ると、大山信子の小康を見計らって親子3人水入らずで関西旅行までしています。
大山捨松は、大山巌の連れ子たちからも『ママちゃん』と呼ばれ、非常に慕われていました。
家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったといいます。

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