『いだてん』の三島弥彦って?天狗倶楽部との関係性やタイムは?

現在、NHKで絶賛放送されている大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』。
その物語の中心人物の一人として登場するのが、俳優でタレントの生田斗真さん演じる三島弥彦です。

明治時代の陸上選手であり、日本初のオリンピック代表選手として1912年に開催されたストックホルムオリンピックにマラソンで出場した金栗四三と共に参加しました。

『生田斗真が演じているからなんとなく観てはいるけど、実際の人物としてはよく知らないなぁ…』
という方も多いのではないでしょうか?
この記事でしっかりと『三島弥彦』についてしっかりと知ることで、より深く『いだてん〜東京オリムピック噺〜』を楽しめるようになりましょう!

日本短距離界のエースとして君臨した男・三島弥彦

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の出身であり、三島家の6男6女の5男(女子を含めると11番目)として生まれます。
当時は珍しくはありませんでしたが、なんと長兄の三島彌太郎とは19歳も歳が離れていました。
また、三島自身は妾の子でしたが、父である三島通庸の正妻であった三島和歌子は実子である他の子どもたちと分け隔てなく三島を育てました。
ちなみに、父の三島通庸は三島が2歳の時に亡くなってしまいます。

1891年(明治24年)9月に学習院へと入学し、初等学科から中等学科・高等学科を経て、1907年(明治40年)9月に東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)に進学します。
ちなみに、学習院から東京帝国大学には無試験で進学しています。

成人男性の平均身長が155㎝前後であった明治時代に、三島は170㎝を超える長身を誇り、学習院時代には野球部でエース兼主将、ボート部でも一軍選手として活躍していました。
東大時代には、スキー術を修めるだけでなく、柔道も二段を獲得、乗馬・相撲にも取り組んでいました。
更には、スケートも大会に出場する程度には実力を有しており、スポーツに対する造形浅からぬ青春を過ごすこととなりました。
特にスキーに関しては、日本で初めて本格的なスキー指導を行ったオーストリア=ハンガリー帝国の軍人であるテオドール・エードラー・フォン・レルヒから直接指導を受けて習得し、レルヒからも『プレジデント』というあだ名をつけてもらうほどの実力となりました。
また、プレイヤーとしてだけでなく、審判も早慶戦などで数多く務めていました。

飛び入り参加でオリンピック代表選手に内定?

1911年(明治41年)、新たなスポーツとして陸上競技に熱中し始めていた三島は、羽田運動場で挙行される、スウェーデンのストックホルムで開かれる第5回国際オリンピック大会の代表を決める『国際オリムピック大会選手予選会』の審判委員としての来場を要請されました。
三島は要請自体には答えませんでしたが、こうしたイベントの存在を知り、元来のスポーツ好きも高じて、来場の上で外野で学友と観戦することに決めました。
ところが、のちの本人の談によると『生来の好戦癖はムクムクと起って、到底ジッとして傍観しては居られぬ。久しく練習も絶えていたけれども、兎にも角にも交はって走って見やう。』という考えで飛び入り参加を果たし、100m・400m・800mの各短距離徒競走で第1位、200mで第2位を獲得してしまいます。

予選会では、

  • 後藤欣一(立高跳び 優勝)
  • 泉谷祐勝(立幅跳び 優勝)
  • 霜田守三(走幅跳び 優勝)

といった選手もいましたが、選手団をストックホルムまで送る予算などの都合もあり、マラソン・10,000mに出場が予定されていた金栗四三と三島の2人が選手に選ばれます。
当時の相場で1,800円になる渡航費用を自弁できると見込まれていたことも、三島が選出された理由の一つでした。
実際に、三島は渡航費用として3,500円を持参していましたが、資産の乏しい金栗は兄(実次)に『田畑を売ってでも工面する』と激励されますが、在籍していた東京高等師範学校(現在の筑波大学)の仲間による寄付などで1,500円を賄い、自己負担300円で参加しています。
参加決定以降は、毎週土曜日に金栗と2人でアメリカ大使館書記官のキルエソンに師事して、陸上競技の様々な技法・心得を学びました。
この特訓の成果もあり、三島は400mのタイムを予選競技会時の59″30を50秒台にまで縮めることに成功しました。

ところが、三島自身は『『かけっこ』如きで洋行してよいものか』といった自己内部の迷いや、欧米人のスポーツショーに官立学校の生徒が派遣されると誤解した文部省の無理解に苦しむこととなりますが、学友や当時の帝大総長であった濱尾新の励ましに後押しされ、卒業試験の延期(三島の在学していた頃の東大法科の修業年限は3年、三島は既に5年目)を決定してまでも五輪に出場する意思を固めました。

悔しい結果に終わった『最初で最後の』オリンピック

1912年(明治45年)5月16日、家族や三島の所属するスポーツ社交団体『天狗倶楽部』、野球試合で縁のある慶應義塾野球部のOB会『東京倶楽部』のメンバーらが見送る中、新橋駅(現在の汐留貨物駅跡)からストックホルムへと旅立ちました。
母はユニフォームに手縫いで日の丸を付けて、三島に手渡してくれました。
6月2日にストックホルムに到着した後は、金栗にタイムを計ってもらったり、逆に金栗の練習に付き合ったりと、2人で支えあって練習を積みました。
実は、この間に三島はいわゆるシンスプリントで右脚を痛めていました。

1912年(明治45年)7月6日、旗手として開会式に登場します。
日本からの出場選手は僅か2名だったので行列人数が非常に少なく、物寂しい印象もありましたが、そうした印象がかえって群衆の同情をひいたのではないか、と日本人記者は報じていました。

開会式当日の午後に短距離予選に出場した三島でしたが、最初の100m予選でトップに1秒以上の差を付けられて敗退となります。
スウェーデンでは、師であるキルエソン書記官の助言を得ることも出来ず、すっかり意気消沈してしまいます。
金栗には、『金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ。』と語っていました。
ちなみに、後年に三島はスタートダッシュに成功した際に、『こりゃ勝てる』と思ったのも束の間、50m付近でスーッと抜かれた、と振り返っています。

つづく200m予選でも、英米独の3選手に敗れ、最下位に終わってしまいます。
400m予選は100m・200mで金メダルを獲得したラルフ・クレイグ(アメリカ)が他の選手に謙譲して棄権したこともあり、準決勝進出の権利を得ます。
ところが、三島は『右足の痛み激しきが為』に棄権してしまいます。
近年の資料では、『精神的肉体的困憊のため』あるいは『勝機無しと見たため』を理由だと考えている人の方が多くなっています。

金栗の競技も終了すると、嘉納治五郎や金栗らと語らって、4年後のベルリン大会での雪辱を誓いました。
三島は閉会式を待たずに出国し、次大会の開催国であるドイツへと向かいました。
ドイツでは、オリンピック会場などの視察後、砲丸や槍などの日本ではまだ知られていなかったスポーツ用品を買い込み、翌年2月7日に帰国しました。

そのベルリン大会が第一次世界大戦で中止となり、8年間の中断期間を経て1920年(大正9年)にアントワープ大会が開催されましたが、その時に三島は既に34歳になっており、アスリートとしてオリンピックに出場できるような肉体を失っていたためか、予選にも姿を見せませんでした。

エリート銀行マンとしての一面

1913年(大正2年)7月、帝大を卒業後に兄の三島彌太郎のいる横浜正金銀行に入行します。
本店からサンフランシスコ支店、ニューヨーク出張所、ロンドン支店を経て、北京支店と漢口支店で支配人代理を務めます。
その後、スマラン支店副主となり、1935年(昭和10年)に本店の副支配人に抜擢されます。
ロンドン支店勤務時代には、オリンピックに出場した著名なアスリートとして現地で丁重な扱いを受け、1920年のアントワープオリンピックを前にイギリスを訪問した金栗と再会も果たします。
プライベートでは、1923年(大正12年)1月に鍋島直柔の5女である文子と結婚します。
その後、青島支配人を経て、1939年(昭和14年)には本店に戻って検査人に就任しています。
1943年(昭和18年)2月に横浜正金銀行を退社し、帝国蚕糸倉庫監査役に就任しました。

スポーツと向き合い続けた晩年

大学を卒業してからは、三島はスポーツを趣味として嗜むようになり、ゴルフやテニス、狩猟などを楽しんでいました。
専門競技としていた陸上競技における後進育成にも関心を示しており、大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)では総務理事・評議員・常務委員などを歴任しました。
1936年ベルリンオリンピックの最終選考会では審判長を務め、1940年東京オリンピックの招致成功(のちに返上)時も体協評議員として見届けました。
一方、1954年(昭和29年)2月1日に目黒区で亡くなるまで、メディアに登場したことはほとんどありませんでした。
ただ、1952年ヘルシンキオリンピックにて日本のオリンピック復帰が認められたのと前後して、三島も『産業經済新聞』や週刊『スポーツ毎日』の取材に応じています。
家族に対してもオリンピックのことは進んで話題にはしておらず、長男の妻である三島まり子によると『私が聞くまで五輪に出場したことさえ話さなかった。聞いたら『出たよ』ってそれっきり。』だったといいます。
後に、三島まり子は1964年東京オリンピックでIOCのアベリー・ブランデージ会長の通訳を務めますが、三島と親しかった当時の東京都知事であった東龍太郎が三島まり子を三島自身の娘だと勘違いして抜擢した、という説もあります。

そんな三島の死は、あまりにも突然でした。
1954年(昭和29年)1月30日に心臓の疼痛を感じるも、そのまま来客の応対をこなした後に、読書をして過ごしていました。
すると、2月1日の朝に意識を失い、午前7時に67歳で亡くなりました。
死因は、動脈硬化と解離性動脈瘤による心臓内の出血だったそうです。

三島弥彦とスポーツ愛好者社交団体『天狗倶楽部』の関係性とは?

1909年(明治42年)頃、大の野球好きで有名な冒険小説家の押川春浪を中心として

  • 中沢臨川(文芸評論家)
  • 水谷竹紫(劇作家・演出家)
  • 弓館小鰐(新聞記者・随筆家)
  • 吉岡信敬(早稲田大学応援団 初代団長)
  • 鷲沢与四二(新聞記者)
  • 太田茂(ジャーナリスト)
  • 平塚断水(新聞記者)
  • 押川清(早稲田大学野球部 3代目主将)
  • 飛田穂州(早稲田大学野球部 5代目主将)
  • 三神吾朗(早稲田大学野球部)
  • 西尾守一(早稲田大学野球部)
  • 野々村納(早稲田大学野球部)
  • 伊勢田剛(早稲田大学野球部)

などのメンバーが集まって野球の試合が行われたのが、天狗倶楽部の始まりとされています。
なお、この時、試合自体には参加していないものの、作家の柳川春菜と岩野泡鳴が観戦に訪れています。
当初は、特に集団としての名前もなく、『文士チーム』などと呼ばれていましたが、羽田球場で早大野球部と米艦クリーブランド(C-19 Cleveland)乗員チームとの試合が行われた際に、前座としてやまと新聞チームと試合を行い、その試合の湯巣を報じた萬朝報が『天狗チーム』と呼んだことから『天狗倶楽部』となりました。
この試合以降、メンバーは増加し、最大時には約100人のメンバーを抱えていました。
ただし、入退会に特に手続きは不要で、会員名簿も存在しなかったので、メンバーと非メンバーに明確な境はありませんでした。
また、メンバーの呼び方は必ず苗字の後に『○○天狗』でした。

活動内容は、野球を中心として相撲、テニス、柔道、陸上競技、ボート競技など多岐に渡っていました。
参加メンバーの中には、それぞれのジャンルで後に名を遺すような人間も数多く在籍していました。
また、スポーツ活動の内容は、活動後の宴会の様子なども含めて雑誌や新聞の記事として面白おかしく書かれることも多く、雑誌や新聞の読者からは大きな支持を受けていました。

しかしながら、1914年(大正3年)に押川が38歳で病死して以降は活動はやや弱まり、中沢や柳川などの主要メンバーの死も相次いだことにより、1930年代(昭和初期)に天狗倶楽部は自然消滅してしまいます。

天狗倶楽部の陸上競技における活動は、ストックホルムオリンピックの代表選手予選が羽田運動場で行われた際に、マラソンコースの距離測定を中沢臨川が行うなどの協力を行いました。
さらに、もともと審判を務めるつもりであった三島弥彦が飛び入りで参加したところ、100m・400m・800m走で優勝し、代表選手に選ばれました。
またこの時、代表選手にこそ選ばれなかったが、立幅跳びで泉谷祐勝が優勝しています。

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