『いだてん』の伊藤博文とは?暗殺者は誰?女好きってホント?

伊藤博文といえば、2018年『西郷どん』、2019年『いだてん~東京オリンピック噺~』と2年連続でNHK大河ドラマに登場した日本の歴史に名を遺す偉大な政治家の一人です。

 

しかし、皆さんは伊藤博文に関して初代内閣総理大臣であること以外にどれくらい知っていますか?

伊藤博文は4回も内閣総理大臣を務めただけでなく、大日本帝国憲法の作成に尽力し帝国議会や身分制など戦前の日本における近代国家の骨格を作り上げた人物なのです。

 

そんな初代内閣総理大臣を務めたほどの大物政治家である伊藤博文はどのような生涯を送ったのでしょうか。様々なエピソードを通して伊藤博文を見ていきましょう。

 

伊藤博文の生涯

豊臣秀吉の再来!?

伊藤博文は周防国、今の山口県出身です。

ここで意外なのは、伊藤博文は百姓の家の出身なのです。しかも有力な百姓の家ではなく、父は破産してしまい長州藩の下級武士である伊藤家の養子になってしまいます。父が伊藤家の養子になったことで、伊藤博文も伊藤を名乗り下級武士となったのです。

 

足軽から総理大臣まで上り詰めた伊藤博文。まさに豊臣秀吉と同じような人生ですね。

それでは、伊藤博文はどのようにして総理大臣にまで上り詰めていったのでしょうか。

 

あの松下村塾出身

黒船が来航し、日本が動乱を迎えた翌年に伊藤姓となった伊藤博文は下級武士の仲間入りしたことで塾に通うようになりました。幼少のころから優れた才覚を発揮し頭角を現し始めました。

黒船来航による警備強化の必要性から伊藤博文は江戸湾警備のために相模へ派遣されました。このときに来原良蔵の出会い師事することになりました。

そして、来原は伊藤博文が萩に戻ることになった際に吉田松陰の下で学ぶよう紹介状を書きました。

 

こうして、松下村塾の門下となった伊藤博文は様々な知識を吸収していきます。伊藤博文は貧しく教科書すら満足に買うことができなかったが地道に勉学に励んでいました。師匠の吉田松陰は伊藤博文のことを、才覚は劣り学問は未熟ながらも剛直な性格でありこの弟子をとても愛していると語っている。

そして吉田松陰の京都へ派遣する推薦メンバーの一人に伊藤博文は選ばれるほど成長します。京都では後に明治政府を共に支えることになる山県有朋と親交を結びました。

 

しかし、安政の大獄により師匠の吉田松陰が幕府の手により処刑されると攘夷運動に傾倒していくことになってしまいます。

 

松下村塾は2015年に世界遺産に登録されています。松下村塾出身の生徒は高杉晋作・伊藤博文など明治維新期に活躍した人材を数多く輩出しており明治維新において無視することのできない私塾です。

伊藤博文の思考形成においても松下村塾は無視できない大切なものでしょう。

 

イギリス留学を通じて

伊藤博文は松下村塾出身者とは異なる道を歩むことになりました。

 

黒船来航をきっかけに250年もの間続いた江戸時代の平和が動揺し、攘夷派と開国派のように様々な意見の対立が生まれました。伊藤博文は師匠の遺志を継いで攘夷活動をしていましたが、同時に日本に大きな衝撃を与えた外国への興味も隠すことができなくなってしまっていたのです。これは、もう一人の師匠である来島恒喜の影響でしょう。

 

そんな矛盾した考えを持っている中、井上馨の勧めで海外渡航を決断しました。長州五傑と呼ばれるメンバーの一人としてロンドンに留学しました。

半年だけの留学でしたが、西洋列強の実力をその身で感じ、攘夷論の限界を悟り、開国論に転じ日本の富国強兵を目指すためには倒幕が必要不可欠であるという考えを持つようになりました。

また、この留学で英語や諸外国の風習を学んだことで後の明治政府において実力で頭角を現していく下地を作ったのです。

 

帰国してから

ロンドンに留学し様々なことを学んでいた伊藤博文は急遽長州に呼び戻されました。

当時、長州藩とイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国連合の戦いである下関戦争が勃発していました。長州藩は圧倒的なまでの戦力になすすべなく敗北してしまいました。

伊藤博文は高杉晋作の通訳として和平交渉にあたります。これを機に倒幕勢力はイギリスに接近するようになります。イギリスも当時争っていたフランスが幕府に近づいていたことから敵対勢力である討幕派に注目していたのです。

 

こうして下関戦争で列強の恐ろしさを経験し、長州藩内部は幕府に対しての恭順を掲げる俗論派と攘夷を訴える正義派に二分されました。

伊藤博文は攘夷にも反対し、倒幕を訴えていたためどちらにも属することはありませんでした。

しかし、第一次長州征伐で幕府に敗北し恭順の姿勢を見せ始めると盟友高杉晋作の挙兵に一番に反応し伊藤博文も俗論派に対し挙兵し、正義派が藩政を握ることを手伝いました。

後に伊藤博文は、「私の人生において誇れることは、一番に高杉のもとに駆け付けたことである」と語っています。

 

そして明治維新へ

長州藩が攘夷に傾いた時からしばらく伊藤博文は武器調達など裏方に徹しており、表舞台に登場することは少なくなっていました。

伊藤博文が再度注目されるようになるのは、明治新政府が誕生してからです。

 

明治維新において無視することのできないのは維新3傑と呼ばれる人物でしょう。維新3傑とは大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允です。伊藤博文も英国留学による英語の精通していたことや、長州閥の有力者として木戸孝允の後ろ盾を得ており、初代兵庫県知事や初代工部卿といった政府の要職を歴任していくことになりました。

 

明治2年には木戸孝允や大久保利通に並ぶ特命全権副使として岩倉使節団に参加しました。今度は西欧諸国を回り、改めて日本の近代化の遅れを直視することになり、富国強兵の重要性を再認識しました。

明治6年に日本に使節団が戻ってくると、征韓論争が勃発しました。これは簡単に言うと、韓国を武力によって日本の植民地としようとする考えです。

伊藤博文をはじめとした使節団のメンバーは欧米の近代化を目の当たりにしていたため、「内治優先」を訴え征韓論を退けました。国内の近代化及び統治システムの整備を優先としたのです。

 

しかし、明治10年に木戸孝允が病死し西郷隆盛も西南戦争において戦死してしまう。また、翌年紀尾井坂の変において大久保利通が暗殺されてしまうと維新3傑が全員いなくなってしまいました。こうして、明治政府は伊藤博文や大隈重信といった次の世代に引き継がれていくようになったのです。

 

そして初代内閣総理大臣へ

伊藤博文と大隈重信が明治政府の2本柱となっていた体制は長くは続きませんでした。

 

明治14年に意見が対立するようになっていた大隈重信を伊藤博文が政界から追放すると、10年後の国会開設を約束することになりました。

国会開設には天皇中心の統治機構を確立するための憲法の存在が必要となり、伊藤博文は明治天皇から調査のための渡欧を命じられました。伊藤博文を中心とした憲法調査チームはベルリン大学やウィーン大学をまわり歴史法学や行政について学びました。ここでの経験が日本に帰国してからの近代的な内閣制度や憲法作成の基礎となっているのです。

 

伊藤博文たちが帰国すると形骸化してしまっていた太政官制に代わって内閣制度を導入することになりました。

ここで初代内閣総理大臣として名前が挙がったのは太政大臣として政府の頂点にいた三条実美と、大久保利通亡き後実質的に宰相として明治政府をまとめ上げていた伊藤博文でした。三条実美は高貴な家の出身であり、伊藤博文が農民出身であったことから最初は三条実美が有力でした。

しかし、初代内閣総理大臣を決める宮中会議において井上馨と山県有朋によって伊藤博文が支持され伊藤博文が就くことに決まりました。当時伊藤博文は44歳2か月で、この歳での総理大臣就任は現在に至るまで最年少の記録です。この伊藤博文の総理大臣就任は藩閥の優位を決定づける契機となりました。

第一伊藤内閣は憲法発布前の様々な整備に尽力しました。ここで注意しないといけないのは、今と大きく異なる点として第一次伊藤内閣は国会がまだ開かれてない中で成立した内閣であるということです。

 

大日本帝国憲法の完成

伊藤博文は初代枢密院議長就任のため総理大臣を辞任しました。伊藤博文は枢密院議長として憲法草案の最終調整に尽力しました。

憲法作成の背景には、第一次伊藤内閣において井上馨を外相として列強との条約改正交渉をしていた際、憲法が整備されていないことで近代化を成し遂げた国としてみなされていなかった経験がありました。この苦い経験から、より一層憲法作成に力を入れるようになったのです。

そして、黒田清隆内閣の下で日本初の憲法である大日本帝国憲法が発布されたのです。翌年には帝国議会も開設され近代国家としての統治機構が成立したのです。

 

条約改正と日清戦争

伊藤博文が2度目の総理大臣を務めていたとき、明治以来初の外国との戦争である日清戦争がおきました。

では、日本はなぜ戦争に踏み切ることができたのでしょうか。日本はまだまだ富国強兵が完成しているわけではなく、近代国家としての第一歩を踏み出したにすぎませんでした。

清国は西欧の列強によって力を弱めていたとはいえ、依然として「眠れる獅子」と列強から恐れられていました。

 

ここで戦争への大きな契機となったのは条約改正なのです。

皆さんは陸奥宗光という人物の名を聞いたことはあるのではないでしょうか。陸奥宗光といえば、治外法権の撤廃を決定づけた条約改正交渉を成功させた人物です。この時の内閣こそ第二次伊藤内閣なのです。

この条約は日英通商航海条約であり、イギリスとの間に結ばれたものです。これがどのように関係するかというと、この条約によってイギリスの日清どちらにも中立であることが確認できたのです。イギリスが清国を援助してしまうと勝ち目はありません。その可能性を否定することができたことで、日本は清国との戦争に踏み切ることができたのです。

 

伊藤博文の最期

日清戦争後、伊藤博文は2回内閣総理大臣を務めたものの、西園寺公望や原隆といった後継者に第一線を譲り、自らは元老として明治天皇の側近として政府に対して大きな影響力を有していました。

 

そして、日露戦争を経て朝鮮半島への日本の優位が確立すると、初代韓国統監として朝鮮半島へ渡りました。伊藤博文は韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでとし、日韓併合には否定的であったといわれています。

しかし、現地の人々からすると伊藤博文は母国を併合しようとする日本の先陣を切る人に見え独立運動が盛り上がると、伊藤博文への敵対心が強まっていきました。

結局1908年10月26日、ハルビン駅において韓国人の安重根によって狙撃され暗殺されてしまいました。

 

伊藤博文は明治維新後、近代国家として必要不可欠である憲法や議会を整備し西欧に近づくための富国強兵政策に尽力した偉大なる政治家なのです。

 

今なら炎上不可避??

伊藤博文は今まで見てきたように、政治家として類まれなる才能を有していました。

しかし、伊藤博文にはもう一つの面も持っていたのです。

 

伊藤博文は無類の女好きであったのです。

伊藤博文は「ほうき」というあだ名がつけられていました。これの由来は履いて捨てるほど女が周りにいたからだとされています。

 

伊藤博文の女好きは限度を超えていて、イギリス留学中に現地の風習を学ぶためだと現地の風俗街に入り浸り、留学生仲間に帰国させるべきだと意見されたほどです。

他には、留学から帰ってきた伊藤博文が開国論を唱えていたことで攘夷派から命を狙われると、下関の芸者のお梅にかくまってもらっていました。当時、親に決められた妻がいたもののお梅にはまってしまった伊藤博文はお梅との間に子供を作ってしまい、妻と別れることになりました。現代の世のなかだったら一発で炎上してしまいますね。

 

伊藤博文のすごいところは、女好きがマスコミの格好の餌食となっている中、とうとう明治天皇から直々に注意されました。しかし、伊藤博文は天皇の前でも居直り、芸者遊びは恥ずべきことではないと堂々と主張しているのです。

しかし、このようなスケールの大きな人物だからこそ4回も総理大臣を務め、国民からの人気も高かったのかもしれませんね。

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