『いだてん』の嘉納治五郎とオリンピックの関係は?英語も堪能?

日本発祥の世界に誇れるスポーツと言われると、皆さんは何が思い浮かぶでしょうか。

学校での授業にも取り入れられている、日本人にとってなじみ深いスポーツといえば柔道でしょう。

柔道はオリンピックや世界柔道などにおいて金メダルが望めるスポーツであり、日本は柔道発祥国であり柔道強豪国なのです。

では、柔道が日本発祥であることは皆さん常識として知っていたと思いますが、柔道の創始者は誰なのかは知っていますか?

柔道の創設者の名前は、2019年大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』にて役所広司さんが演じたことでも有名な、嘉納治五郎(かのうじごろう)といいます。

嘉納治五郎は人を殺す技術であった柔術を、競技としての武道に昇華し柔道を創設したのです。

そして、講道館と呼ばれる道場を設立し、柔道を広めていきました。

嘉納治五郎とはいったいどのような人物だったのでしょうか。

その生い立ちと功績を一緒に見ていきましょう。

嘉納治五郎と武術

嘉納治五郎は1860年12月10日に現在の兵庫県である摂津国の酒造業を営む名家の嘉納家に生まれました。

明治維新がなされ、江戸が東京と名前を変えて新政府が誕生すると、嘉納治五郎は新政府に招聘された父親と一緒に上京しました。

東京では近代化を目指す日本に必要とされる英語を初めとした様々な学問を学びました。

嘉納治五郎は生まれつき学業に秀でており、同級生の誰にも負けないほどでした。

そんな成績優秀な嘉納治五郎には悩みがありました。

成績では同級生に負けないにもかかわらず、逆に力ではほとんどの人に負けてしまうのです。

同級生には頭は良くても腕っ節が弱い軟弱者という風に侮られていました。

嘉納治五郎はこれが悔しくて、見返したいとずっと思っていたのです。

そんな嘉納治五郎はある時、柔術を身に着ければ力が勝る人にも勝てることができるようになると考えました。

しかし、当時は文明開化を目指す時代で、柔術は時代遅れの産物だとされていました。

誰もまともに聞かず、そんなことを言う暇があったら将来のために英語や学問を学びなさいと言われてしまいました。

結局、嘉納治五郎は柔術へのあこがれを抱きながら、後の東京大学である官立東京開成学校に通い英語や政治学、経済学などを修めました。

東京大学

しかし、嘉納治五郎はいくら学問を修め成績優秀であり続けたとしても消えない柔術へのあこがれがありました。

なので、学問を学ぶ中どうにかして柔術を学ぶことができないのか模索しました。

柔術を知っていそうな人を片っ端から訪れ柔術を教えてもらう、もしくは教えてくれそうな人に心当たりがないかどうか探しました。

しかし、柔術を教えてくれる人を見つけ出すのはそう簡単なことではありませんでした。

全然見つからず、周囲にもあきらめるよう言われている中粘り強く探し続け、ついに師匠を見つけることができました。

それは天神真楊流の福田八之助でした。

天神真楊流は厳しく、嘉納治五郎は福田に投げられたときにどうやったら師匠のように投げれるのか聞いたところ、福田から何回も投げられれば解るようになるといわれ、理解できるようになるまで何回も投げられ続けました。

知識だけでなく身体でしっかり理解することを基軸とした流派であったのです。

もともと体力に恵まれなかった嘉納治五郎でしたが、厳しい練習にもひどい筋肉痛にも体中の生傷にさえも小さいころからのあこがれとやる気で乗り越えて、柔道をどんどん吸収していきました。

明治12年(1879年)には新一万円に描かれることで有名な渋沢栄一の依頼を受けて、来日中のグラント前アメリカ大統領の前で柔術演武を披露するまでに成長しました。

講道館の設立

嘉納治五郎は柔術を学ぶうちに生来の怒りっぽい性格が直っていき、落ち着きを持ちながら芯の通った立派な人間に成長していきました。

こうして嘉納治五郎は武術こそ人間を体力的にも、知力的にも、道徳的にも成長させることを期待できると考えました。

近代化を目指す日本にとって不要なものとして一度価値を否定された柔術は、嘉納治五郎によって息を吹き返していくのです。

はじめは天神真楊流柔術を学んでいた嘉納治五郎は起倒流柔術も学び、それぞれ奥義を習得しました。

それ以外にも様々な流派を学び、それらに嘉納治五郎自身の創意工夫によって技術体系を確立していきました。

嘉納治五郎の考えは「精力善用」の言葉であらわされており、「柔よく剛を制す」という考えを「心身の力をもっとも有効に活用する」という考えに発展させ、これは武術においてだけでなく、生活全般に一貫される重要な考えだとしました。

この考えに基づいて嘉納治五郎は柔「術」から自己完結を目指す柔「道」へと名を変えました。

ここに嘉納治五郎による柔道創設がなされたのです。

この柔道を世の中に広めるための場所として、明治15年(1882年)に「その道を講ずるところ」という意味で「講道館」と名付けられた道場が作られました。

講道館

講道館では「型」の教えがなされており、心身の鍛錬を目指しました

教育者としての一面

柔術に人が成長するための心構えを見出し、柔道に昇華させた嘉納治五郎は教育者としてもすぐれていました。

講道館を作った明治15年(1882年)に学習院に在職中の友人から求められ、「政治学」を担当しました。

もともと成績優秀だった嘉納治五郎は授業を日本語でも英語でも行うことができ、まさに文武両道が似合う人物だったのです。

英語が得意な嘉納治五郎は「弘文館」という英語学校も開設しました。

この学校は資金難などで短い間しか開校されることはありませんでしたが、中国を代表する文豪魯迅も学んでいたほど清国から積極的に留学生を受け入れるなど大変重要な学校でした。

他にも現在の筑波大学にあたる東京高等師範学校の校長を長年務めるなど、教育者としても様々な功績を嘉納治五郎は残したのです。

日本のオリンピック参加に貢献

明治42年(1909年)、東京高等師範学校の校長を務めていた嘉納治五郎にある申し出がありました。

その申し出は、国際オリンピック委員会創設に尽力し、近代オリンピックの再開に貢献した「オリンピックの父」ピエール・ド・クーベルタン男爵からでした。

Wikipedia(ピエール・ド・クーベルタン)

その内容は、欧州出身の人が中心となって構成されている国際オリンピック委員会にまだひとりもアジア出身の人が参加していないことを憂いており、ぜひ嘉納治五郎に務めてほしいというものでした。

嘉納治五郎は当時の外務大臣小村寿太郎などと相談し、国際オリンピック委員会の委員就任を引き受けることを決心しました。

こうして嘉納治五郎は世界のスポーツ団体の委員になると、日本国内のスポーツをまとめる団体の創設にも尽力するようになりました。

第5回オリンピックストックホルム大会に出場するために、日本国内のスポーツに関する万事を取りまとめる団体の存在は必須だったのです。

嘉納治五郎は東京帝国大学や早稲田大学、慶応義塾大学などの賛同も得て大日本体育協会の創設にこぎつけました。

この協会の会長に嘉納治五郎は就き、オリンピック参加を訴えると共に日本国内の体育普及にも貢献しました。

協会が作られると協会主導でオリンピックの国内予選が行われ、選手選考が急がれました。

ここで、日本人初のオリンピック出場選手である三島弥彦や金栗四三が決まりました。

嘉納治五郎も選手団長として2人と一緒にオリンピックに参加しました。

結果としては世界のレベルに全く歯が立たず惨敗でしたが、嘉納治五郎は日本のスポーツが国際的な舞台に立つ第一歩を踏み出す大きなきっかけを作ったことは誇るべきことであると2人を慰めたのです。

嘉納治五郎の最期

その後のオリンピックにも積極的に日本人選手を送り込み、世界のみならず日本国内にも日本のスポーツのすばらしさを示し続けました。

そして、1936年のベルリンで行われた国際オリンピック委員会の総会において、極東の地で開催してこそオリンピックの世界的広がりをアピールできると主張し、東京大会の招致に成功しました。

こうして、嘉納治五郎の尽力で1940年の東京オリンピック大会が決まったのです。

しかし、日本の侵略行為による戦火が広がりを見せ始めると、国際オリンピック委員会は大会返上を求め始めます。

加納治五郎はこれに猛反発し、オリンピック開催は政治的影響から独立すべきだと主張しました。

しかし、この主張に賛同してもらえるよう欧米を歴訪している最中のバンクーバーから横浜に向かう氷輪丸の船上で、嘉納治五郎は肺炎に倒れてしまいました。

78歳の人生でした。

日本は嘉納治五郎の死をきっかけに大会返上論が多数を占め、1940年の東京大会は幻に消えてしまったのです。

もし、嘉納治五郎が生きていてくれたら、東京で初めて行われるオリンピックは1964年ではなく1940年だったかもしれませんね。

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