『いだてん』の大隈重信って?早稲田大学創始者?総理大臣も経験?

2018年『西郷どん』、2019年『いだてん〜東京オリムピック噺〜』とNHK大河ドラマに2年連続で登場した大隈重信。

しかし、大隈重信の名前を知っている人は多いと思いますが、具体的に何をした人なのか説明できる人は少ないのではないでしょうか。

大隈重信は2回総理大臣を経験し、早稲田大学の創設者としても有名な、政治家・教育者として歴史に名を残している人物です。

 

肥前の英雄、大隈重信(おおくましげのぶ)

皆さんが中学・高校出の日本史で幕末を習った時、よく「薩長土肥」という言葉を聞いたと思います。これは幕末において倒幕に活躍した、薩摩・長州・土佐・肥前の4つの藩を表した言葉です。

薩摩・長州は西郷隆盛や山県有朋など多くの人物が思いつきますよね。土佐も坂本龍馬が出てくると思います。

では、「肥」つまり肥前と言われてすぐ思いつく人はどれくらいいるでしょうか。

肥前とは現在の佐賀県で、ここ出身の幕末から明治にかけて活躍した一番有名な人物こそ大隈重信なのです。

それでは、なぜ大隈重信は肥前藩出身の政治家として歴史に名を残す偉業を数々成し遂げられたのでしょうか。

大隈重信の一生

生まれたときからエリート!?

大隈重信は1838年、肥前藩の砲術長という役職を務めていた大隈家の長男として生まれました。

大隈家は上級藩士の家柄であったため、7歳の時から藩校と呼ばれる武士を対象とした武士にとって必要とされる知識を習得するための教育機関に通っていました。当時の武士にとって必須学問は朱子学という中国由来の学問でした。しかし、大隈重信は朱子学を学ぶことに疑問を持ってしまいました。

大隈重信は1854年に「義祭同盟」に参加し、西洋の学問や技術を積極的に取り入れ、新たな西洋由来の知識を取り入れることを望んだのです。一方、朱子学を否定しつつも中国に対し深い敬意は持っており、東西の知識の融合という柔軟な考え方を有していたのです。

こうして、蘭学を修め、1864年26歳のころ長崎に出てアメリカ人宣教師フルベッキに英語を学び、同時に聖書や万国公法を学びます。

ここで学んだ知識を生かし、後にイギリス公使パークス相手に一歩も引かない外交交渉を行ったのです。

明治政府において唯一無二の存在

明治新政府にとって、西洋の知識に精通していた大隈重信は重要な人材であり、薩長が中心となって明治新政府が構成されている中で、実力でその地位を確立していったのが大隈重信なのです。

大隈重信は特に財政や外交に精通しており、明治政府においてこの二つを得意とする人材が少なかったこともあり、明治初期から大蔵卿や外務大臣を歴任します。

 

しかし、大隈重信は明治政府において地位を確立し続けることはできませんでした。

自由民権運動の盛り上がりにより、立憲政体についての意見が様々発表されるようになると、大隈重信も1881年(明治14年)に2年後に国会を開設し、イギリス流の政党内閣を確立させるといった急進的な意見書を提出しました。

しかし、これは伊藤博文たちには受け入れられず不信感を強めてしまい、大隈重信は明治政府における役職を罷免されてしまいました。これが、「明治十四年の政変」と呼ばれる事件です。この際、伊藤博文は明治23年に国会を開くことを約束したため、民主主義政治の始まりともいえます。

幼少期いち早く蘭学に注目したように、先見の明がある大隈重信だからこそこの時代において異常にも見えてしまう政党内閣という展望を描けていたのでしょう。

政府から離れても

明治政府から去った大隈重信は犬養毅や尾崎行雄と共に国会開設に備え立憲改進党を結成し党首となりました。

また、これからの日本が発展するうえで教育改革が絶対条件だと考えた大隈重信は大学を創設しました。自由主義精神育成を軸とした東京専門学校です。これこそ、後の早稲田大学です。早稲田大学にはいまだに大隈重信が掲げた独立精神、自由精神の教えは校風として継承され続けています。

 

やはり、政府に必要な大隈重信

その後、明治20年には列強との条約改正交渉に行き詰まった明治政府は大隈重信を呼び戻し、外務大臣に就任させました。

大隈重信はまず治外法権の解消を目指し、大審院(現在の裁判所)に外国人判事を導入することで条約を結ぼうとしました。しかし、この条約案が陸奥宗光や伊藤博文に反対されてしまいました。

大隈重信は批判の声が多い中、条約改正交渉の継続を主張しました。しかし、明治22年10月に国家主義組織に所属する来島恒喜に爆弾による襲撃を受けてしまいました。この事件により、大隈重信は一命をとりとめたものの右脚の太腿下三分の一を切断することになってしまいました。また、この事件によって、大隈重信は辞表を提出し外務大臣を辞任しました。

しかし、ここで驚くべきことは大隈重信は犯人に対し

「爆弾を投げたものに対し憎いとは思っていない。外務大臣である吾輩に対し行動することで世論を覆そうとした勇気は感心する。」

と語っています。

大隈重信は自殺してしまった来島恒喜のお墓にお参りしています。

日本初の政党内閣の総理大臣

明治31年、大隈重信が創設した立憲改進党の後身である進歩党と板垣退助が創設した自由党が勢力を増しており、6月になると二つの征討は合体し憲政党が生まれた。

伊藤博文は衆議院において絶対多数を占めていた憲政党を無視することはできないとし、大隈重信と板垣退助を中心とした内閣を認めたのです。ここに日本で最初の政党内閣が生まれたのです。大隈重信は第8代総理大臣に就任し日本最初の政党内閣を板垣退助と共に率いたのです。

しかし、もともと別の主義を主張していた2大政党が1つになったのが憲政党だったので、早々に分裂してしまい、第一次大隈内閣は4か月余りの短命に終わってしまいました。

総理大臣を辞任した後、大隈重信は旧進歩党系が中心となって結成された憲政本党で活躍しました。しかし、憲政本党は旧自由党系が中心となって結成された立憲政友会に押されてふるわず、与党になれなかった。大隈重信は党体制の改革要求が高まると党首を辞任しました。

憲政本党党首を辞任してからは、早稲田大学総長就任や南極探検隊後援会長就任など、精力的に活動していました。

 

老いてもなお唯一無二

時代は変わり、大正3年(1914年)に山本権兵衛内閣が汚職事件で辞職すると、次期首相候補として国民からの人気が高かった大隈重信が注目されました。

そうして、大隈重信は76歳という高齢ながら二回目の総理大臣に就任しました。再び首相に就任するまでの期間が16年というのは歴代最長の記録です。

第一次世界大戦がはじまると、加藤高明外相を中心に日本の参戦と中国大陸での権益確保がさけばれました。大隈重信がこれを支持したことで日本は連合軍側として第一次世界大戦に参戦し、中国に対華二十一か条の要求を行うことで中国における日本の優位を確立しました。これが、第一次世界大戦後の日本の好景気の一因となりました。

退任時の大隈重信は78歳2か月で、歴代総理大臣のなかで最高齢の記録となっています。

 

大隈重信は大正11年1月10日に早稲田の私邸で亡くなりました。大隈重信は偉大な政治家であるとして、一般人でも参列することができる「国民葬」が開かれ多くの人日が別れを惜しみました。

 

福沢諭吉と大隈重信

私立大学のなかで有名な学校をあげてくださいと言われれば、早稲田大学と慶應義塾大学が思いつくのではないでしょうか。その二校の創設者である大隈重信と福沢諭吉には親交がありました。

大隈重信と福沢諭吉は最初犬猿の仲であったといわれています。

 

大隈重信は上位武士の子として生まれ政治家として活躍し、福沢諭吉は下級武士の子として生まれ、幼いころに父を亡くしたことで働きながら勉学に励むなど苦学生であり、大人になると啓蒙思想家として活躍しました。

 

福沢諭吉は、政治家として日本を改革しようとした大隈重信を生意気な政治家と称し、一方大隈重信は、政府に関わることなく多くの人々に知識を啓蒙しようとする啓蒙活動に尽力した福沢諭吉をお高くとまった学者だと評価していました。

 

しかし、ある酒席で二人が出会うとまさかの意気投合し影響を与え合う仲になります。

大隈重信に早稲田大学を設立することを勧めたのも福沢諭吉だったといわれています。早稲田大学の前身である東京専門学校の開校式には福沢諭吉が出席し祝辞を述べたのです。

 

日本で初めての始球式

日本で初めての始球式を行ったのが大隈重信でした。

1908年早稲田大学野球部が来日したアメリカのプロ選抜チームと対戦しました。

その際、初めての始球式を行うためマウンドに立った大隈重信は羽織袴の出で立ちでした。そして、ボールを投げるも右脚が義足であったこともあり、ボールは一塁側のベンチへと大きくそれてしまいました。

打席に立っていた早稲田のバッターは、大隈先生に恥をかかせるわけにはいけないと慌ててバットを大きく振ってストライクにしたのです。

これが、現在の始球式でのバッターが空振りをするという暗黙の了解が生まれた瞬間なのです。

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