大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀とは?家紋や家系図、城は?

2020年NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公といえば、誰しもが知っている明智光秀です。

みなさんの中にある明智光秀に対するイメージはどういったものでしょうか。

やっぱり、本能寺の変で主君である織田信長に謀反を起こした

「天下の裏切り者」

といったイメージが強いのではないのでしょうか。

しかし、明智光秀は本能寺の変で裏切ったことばかり注目されますが、織田信長の下で行ってきた業績に対しての評価が見直されてきています。

明智光秀はどのような人物なのか、彼の人生を振り返りながらみんなで見ていきましょう。

明智光秀の幼少期

明智光秀は織田信長に出会う前、つまり若かりし頃の記録がはっきりとしていません。

生まれ年ですら1516年説、1528年説の2つの有力な説があり、いまだにはっきりとはしていません。

ここで意外に思われるかもしれませんが、明智光秀の生まれ年が2つの説のどちらであろうとも、1534年生まれとされている織田信長よりも明智光秀は年上なのです。

創作物のなかで織田信長が明智光秀をいじめているような場面が描かれることが多いのでそのイメージが強いと思いますが、明智光秀のほうが織田信長よりもはるかに年上であることを知っている人は少なかったのではないでしょうか。

また、明智光秀は美濃国(現在の岐阜県)出身といわれていますが、これもはっきりとしたことがわかっておらず、青年期の明智光秀に関する記録は一切見つかっていません。

また、明智家は清和源氏と呼ばれる武家の名門の支流に位置する血縁だとされています。

清和源氏-Wikipedia

歴史の表舞台に登場

明智光秀が歴史の表舞台に登場したのは、1556年のことです。

伝承によると「美濃のマムシ」こと斎藤道三とその息子斎藤義龍が戦った長良川の戦いにおいて、明智光秀は斎藤道三側につきました。

斎藤道三-Wikipedia

しかし、斎藤道三は敗死し明智光秀がいた明智城も攻められてしまい、越前国(現在の福井県)に敗走しました。

敗走した先の越前国を治めていた朝倉義景に10年間家臣として仕えました。

朝倉義景-Wikipedia

朝倉義景に仕えるようになって10年間は、歴史の表舞台に立つことはありませんでした。

次に表舞台に立った時こそが、明智光秀と織田信長が初めて出会うときなのです。

明智光秀と織田信長の邂逅

1565年、室町幕府の第13代将軍である足利義輝が家臣の松永久秀によって殺されてしまうという衝撃の事件が起きました。

松永久秀-Wikipedia

武士の頂点にいる将軍が家臣によって殺されてしまったこの事件は、下克上が代名詞ともいえる戦国時代ならではの事件といえるでしょう。

足利義輝の弟である足利義昭は松永久秀から逃げるために、姉婿にあたる若狭国(現在の福井県)の守護である武田義統のもとへと逃げていきました

足利義昭-Wikipedia

足利義昭は幕府が置かれている京都から離れてしまったものの、将軍になることを諦めたわけではありませんでした。

全国各地の武将に上洛(京都に向かうこと)と将軍の地位に就く手助けを依頼し始めるのです。

そこで活躍したのが明智光秀なのです。

足利義昭は織田信長に協力を訴えて、織田信長の美濃国征服の手助けとして織田と美濃国の領主斎藤との間に和睦を結ばせました。

しかし、織田信長は和睦を無視するように斎藤に攻め込みました。

足利義昭は自分の面子をつぶしたとして織田信長に対して不満を募らせて距離を取り、朝倉義景に近づくことにしました。

この際に足利義昭と明智光秀は接触します。

朝倉義景は足利義昭の予想に反して、上洛や将軍擁立の手助けをしませんでした。

そこで、明智光秀は足利義昭に織田信長こそ頼りになる人物だと説き伏せ、足利義昭と織田信長の仲介役として動くことになるのです。

明智光秀は見事に仲介役を果たし、織田信長が足利義昭を引き連れ上洛を果たすことに成功したのです。

この時の明智光秀は足利義昭の有能な家臣でありながら、織田家とも関係を持つという複雑な立場でした。

織田信長の有能な家臣へ

1568年、遂に足利義昭は第15代将軍に就任しました。

しかし、将軍になると、織田信長に対して不満が再燃するようになります。

足利義昭は将軍こそ全国の大名を支配すべきと考えていましたが、織田信長は将軍を上洛するための足掛かりでしかなく、まさに飾りとしてしか考えていなかったのです。

足利義昭は裏で朝倉義景と手を結び、織田信長を討とうと考えました。

これが金ヶ崎の戦いと呼ばれるもので、朝倉義景相手に有利に戦いを進めていた織田信長でしたが、後方から浅井長政の裏切りにあい、撤退を余儀なくされたことで有名な戦いです。

この撤退戦は豊臣秀吉が殿を務めたことで有名ですが、実は明智光秀も参加していたのです。

ここで、織田信長を討つために朝倉義景を仕向けた足利義昭は明智光秀の主君でもありましたが、織田信長側について戦に参加し、織田信長の撤退を命かけて支援した明智光秀はこの戦いで、織田信長の家臣として生きていく道を意識するようになったのです。

そして1571年、遂に明智光秀は織田家臣としての功績を残すことになります。

この頃、織田信長は仏教勢力を敵とみなし、自らの全国統一の障害だと捉えるようになりました。

仏教勢力で最も障害になるのは比叡山の僧兵たちでした。

比叡山延暦寺のアクセス・営業時間・定休情報

比叡山延暦寺を本拠地とする天台宗の僧は武力を用いて勢力を広げていました。

織田信長はこれを討つために、比叡山焼き討ちをしました。

この時の明智光秀の戦いぶりはすさまじく、その功績から近江国の滋賀郡が与えられ、坂本城の築城を命じられました。

坂本城-Wikipedia

この坂本城は織田信長の本拠地である岐阜と京都を結ぶ重要な交通の要を担う城となりました。

そんな重要な城を任された明智光秀は、織田信長の重要な家臣の一人に仲間入りしたといえるでしょう。

1573年、足利義昭はとうとう織田信長と完全に敵対することを選びます。

明智光秀は正当な評価をしてくれる織田信長に惹かれ、織田信長に対して挙兵した足利義昭と敵対することを選びます。

足利義昭は織田信長に敗北し京都を追い出され、室町幕府が滅亡することとなりました。

そして、織田信長はその勢いのまま朝倉義景と浅井長政を滅ぼし、天下統一を進めていきます。

この天下統一事業には、明智光秀がなくてはならない存在であったのです。

1575年、明智光秀は惟任(これとう)の姓をもらいうけ、従五位下日向守に任官されました。

かくして彼は、惟任日向守となったのです。

これは、いまだ東国に上杉や武田といった強大な敵が勢力を維持している中で、西国である中国地方や九州地方に支配を拡大していくことを明智光秀に期待したがために与えられた地位でした。

明智光秀は各地に派遣され、各地で武勲を打ち立てていきました。

この時、明智光秀は織田信長の有力な家臣としての地位を確立したのです。

そして本能寺の変へ

本能寺の変は言わずと知れた、明智光秀が主君である織田信長に反旗を翻した暗殺事件です。

本能寺-Wikipedia

1582年、京都の本能寺に滞在していた織田信長は、豊臣秀吉からの救援要請に応えるために出陣の準備をしているところでした。

ここで重要なのが、織田信長の忠臣たちは全国各地に派遣され、天下統一事業にいそしんでいました。

つまり、わずかな兵力で京に滞在していた織田信長と織田信忠親子を討つことができるのは実質的に近畿管領として畿内に残って遊撃軍のような役割を果たしていた明智光秀だけだったのです。

「敵は本能寺にあり」

この一言が歴史を変えたのです。

本能寺の討ち入りの際、明智光秀の重臣のみ本当の目的を知り、一般兵は対象を知らないまま進軍していましたが、この一言で明智光秀が天下をとる覚悟を決め、とうとう歴史的大事件を起こしたのです。

明智軍は本能寺に火を放ち、四方を塀で囲むことで圧倒的な兵力差を見せつけたので、流石の織田信長も抵抗することができず、自殺することとなりました。

本能寺の変-Wikipedia

しかし、この本能寺の変が戦国時代最大のミステリーといわれるのは、明智光秀がなぜ主君織田信長を裏切ったのかが未だにはっきりと解明されていないからです。

明智光秀の織田信長に対する日頃の仕打ちへの怨恨説や、天下人になるという野望説などなど信憑性のあるものから都市伝説的なものまでいろいろと存在しますが、歴史学者が長年研究対象としているものの、確実な証拠は見つかっていません。

明智光秀の三日天下

明智光秀は本能寺の変で織田信長を討ち、そして同時に二条御所にいた織田信長嫡男の織田信忠も討つことに成功しました。

結果、明智光秀の手に天下が転がり込んできたのです。

天下人に最も近い人物として名乗りを上げたわけです。

しかし、そんな明智光秀の天下は長くは続きませんでした。

明智光秀は味方を増やそうと様々な手を尽くしましたが、順調には進まず状況はどんどん暗転していきます。

決定的となったのが、明智光秀の娘である細川ガラシャが嫁いだ先の細川忠興が明智光秀の味方にならず、細川ガラシャを幽閉して織田家への忠誠と身の潔白を示した事件です。

また、明智光秀の運命を決定づける存在となったのが豊臣秀吉です。

豊臣秀吉-Wikipedia

豊臣秀吉は本能寺の変と同時期に中国地方征服のために中国地方覇者の毛利家との大戦に臨んでいたため、直ぐに近畿に戻ってくることは不可能なはずでした。

しかし、豊臣秀吉は織田信長が討たれたことを知るとすぐに毛利と和睦を結び、本能寺の変から11日後には京都に戻り、明智光秀と相対しました。

これが山崎の戦いと呼ばれるものです。

豊臣軍は明智軍を上回る戦力で明智光秀を倒してしまいます。

その後、明智光秀は坂本城を目指して戦場から落ち延びますが、その道中で落ち武者狩りの百姓に竹やりで刺され、討ち死にする結果となります。

文化人としての明智光秀

将軍である足利義昭に仕えていたこともある明智光秀は、今日の洗練された文化にも触れていたため、文化人としての一面も持っていました。

明智光秀は特に連歌を好み、生涯で50回以上もの連歌会を主催したとされています。

一番有名なのが1577年の愛宕山で開催した千句の賦何連歌です。

また、織田信長のすすめで茶会にもはまったともいわれています。

知識人としての明智光秀

現在の有名な観光地となっている城の数々は近世城郭と呼ばれています。

これは、織田信長の安土城以降の天守閣をもつ城のことで、その多くが石造りです。

安土城-Wikipedia

そんな安土城に先駆けて、近世城郭の基礎を作り上げたのは明智光秀が築城した坂本城なのです。

つまり、坂本城はその後の城づくりの手本となったのです。

明智光秀は坂本城以外にも亀山城、福知山城、周山城の築城に携わり、黒井城の改修も担当するなど、築城の名手として近世城郭の発展に貢献したのです。

まとめ

ここまで、明智光秀の生涯を見てきましたがどうでしたか?

注目したいのは、明智光秀は若いころの記録が全然はっきりとしておらず、また本能寺の変は歴史上の最大のミステリーともいえるほど謎に包まれています。

そんな、謎が多い明智光秀を大河ドラマ『麒麟がくる』でどのように描いていくのか気になりますよね。

また、大河ドラマで明智光秀に注目されることで、もしかしたら本能寺の変の謎が解明される手掛かりが発見されるかもしれません。

2020年は、明智光秀から目が離せません!

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