『いだてん』の犬養毅とは?桃太郎の犬の子孫?記念館で書も見れる?

1932年(昭和7年)5月15日に暗殺されてしまった『犬養毅(いぬかいつよし)』
しかし、『犬養毅』という人物について皆さんが確実に知っていることと言えば、
五・一五
事件と呼ばれるこの事件で暗殺されたことぐらいではないでしょうか。

犬養毅が暗殺されたことで、日本は政党政治が終焉を迎え
軍部の台頭で戦争へと後戻りのできない道を突き進むことになっていきました
 

NHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』においても、
ロサンゼルスオリンピック直前に田畑政治が
当時の首相に対し、
オリンピック派遣選手応援歌発表の式典に出席することをお願いします。
しかし、式典が五・一五事件によって犬養毅が暗殺され、中止となる場面
が描かれます。 

ではなぜ、1920年代~1930年代前半にかけて
大きな役割を担っていた犬養が暗殺されたことしか知られていないのでしょうか?

それは犬養が総理大臣になった期間が短く、それまでの政治家としての活動も
あまり歴史の表舞台に立つものではなかったからだと言えます。

ですから、中学・高校の日本史の授業では注目されづらい存在になっているのです。
 

この記事では、改めて『犬養毅』とはどういった人物なのか、
皆さんの知らない情報も交えて見ていきましょう!

犬養毅の一生

1855年に現在の岡山市で生まれ、1876年に慶応義塾大学に入学しました。
在学中は新聞記者として西南戦争に従軍し、
そこで書かれた記事は絶大な人気を博します。
そうした経験から、25歳になると慶應義塾大学を中退し、
自ら立ち上げた東海社で『東海経済新報』を発刊しました。

その後、福沢諭吉の後援をうけ、統計院という役所で役人となりました。
しかし、大隈重信が政界を追われるとともに役人を辞め、
1882年に大隈が率いた立憲改進党設立に参加することになります。

そして、政治の道に進んだ犬養は、1890年に帝国議会開設に伴い、
第1回の衆院選で当選して以来、連続18回当選、42年間の政治家人生が始まりました。 
明治から大正にかけて、立憲政治を貫こうとする護憲運動を展開し、
『憲政の神様』として大正デモクラシーを盛り上げました。 

1929年には立憲政友会の総裁となり、
1931年12月に第29代内閣総理大臣となり犬養内閣が成立しました。
しかし、半年後の1932年5月15日に首相官邸で銃弾に倒れ、暗殺されてしまうのです。

憲政の神様』と呼ばれた政治家 

簡単に犬養の一生を見てきましたが、
『憲政の神様』とは一体どういうこと
なのでしょうか 

犬養が掲げた政治理念は『閥族打破』と『憲政擁護』の二つでした。
『閥族打破』とは明治期の元薩摩・長州藩出身の政治家による
国政の運営状況を問題視し、そうした旧来の政治体制の打倒を目指したものです。
また、『憲政擁護』とは立憲政治、
つまり国民の参政権
を基礎とする憲法に基づいた政治を護るという意味になります。 

 二度にわたり護憲運動を展開したことや、
財産などによる制限のない普通選挙を実現する運動でも活躍したこと
から、
尾崎行雄とともに『憲政の神様』と呼ばれるようになった
のです。 

後に犬養内閣が成立後、犬養が五・一五事件で暗殺されたことで、
8年間続いた衆議院において勢力を占める政党の党首が内閣を組織する政党政治、
いわゆる『憲政の常道』が終焉を迎えてしまいました。

これによって軍部が影響力を強めてしまい、
日本政府が日中戦争や太平洋戦争の原因となった満州事変で成立した満州国を
正式に認めるなど、戦争への道を突き進んでしまったのです。
 

 現代を生きる私たちからすると、衆議院で一番勢力を占めている政党の党首が
内閣総理大臣に就くことは当然かもしれませんが、戦前は大変珍しいことだったのです。

現代において当然の政党政治や普通選挙を求め続け、
倒れたのちにその体制が動揺してしまうほどの影響力を持つ犬養は
まさに『憲政の神様』なのでしょう。 

『話せばわかる』最期まで話し合いを貫いた犬養毅 

犬養の最期は、これまで何度か触れてきましたが、五・一五事件での暗殺です。

それでは、五・一五事件はなぜ起きてしまったのでしょうか。
首相暗殺事件という衝撃の事件の背景には、
第一次世界大戦終結による世界的な軍縮ムードのなかで、
政府の軍事予算削減や軍部批判、そして世界恐慌による不景気がありました。

事件で首相官邸を襲ったのは海軍の青年将校であり、銃を犬養へ向けたのです。
銃を向けられた犬養は、冷静に兵士に『話せばわかる』といい、
自ら応接室へ通し、今後の日本の政治の在り方や、
行く末を武力ではなく話し合いのなかで解決しようとしたのです。 
しかし、兵士たちは話し合いに応じず、腹部と頭部を撃ち逃げてしまいます。

犬養は頭部を撃たれたにも関わらず、
近くにいた女中に『今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話聞かせる』と言い、
それでもなお最期まで話し合いを求めたのです。 

しかし、傷はやはり重く、日付が変わる前に亡くなってしまいました。

実は書道家? 犬養毅の意外な一面

犬養は『木堂』と号し、書道家としても有名でした。

犬養は江戸時代に生まれたこともあり、漢詩文の教養を修めていました。
また、数多くの書作品を鑑賞してきたために、素晴らしい作品を数多く残しています。

犬養の地元・岡山には犬養木堂記念館が存在し、犬養が政治家になる前から、
政治家として政友会総裁になり、暗殺されるまでを年代順に資料が展示されています。
この記念館が素晴らしい点は、
犬養の生涯と日本の歴史を一緒に追うことができるように展示されているところです。

犬養毅の逸話

政敵を数多くつくってしまうほどの毒舌家

五・一五事件において、海軍の青年将校に襲われた時でさえ
話し合いによる解決を求めたほど、犬養は言論を重要視していました。 

犬養の演説は理路整然としていて、
聞くものが恐怖を覚えてしまうほどの迫力を有していたと言われています。

しかし、犬養は周りが心配するほどの毒舌だったことで有名で、
この毒舌で政敵を増やしてしまうことも多かったそうです。

犬養の親友の古島一雄は、
犬養夫人に毒舌をどうにか直してもらえないかと相談をしたほどです。

私生活は無欲

犬養は私生活においては、食事も着るものも全くこだわりがなかったことで有名です。

また、議会事務局で働く少年が病気になると、自ら引き取り学校に通わせてあげるなど、
困っている弱者に対し援助の手を差し伸べるといった
毒舌とはまた違う一面も持っていました。

これは、日本人だけではなく
中国から亡命してきた孫文や蒋介石を匿ったというエピソードからもみえてきます。
もちろん、アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援するという
アジア主義という思想による影響もありますが、
犬養が持つ元来の優しさも強く影響しているでしょう。

実は政治家を引退したかった?

犬養は、第二次護憲運動によって成立した加藤高明内閣において逓信大臣を務めました。
ただ、犬養自身も小政党を率いており、
それに限界を感じた犬養は普通選挙法の成立という自らの目標の達成もあり、
政界の引退を決意したそうです。

そうして、長野県の富士見高原にある山荘に籠り、表舞台から身を引いてしまいます。
しかし、世間はここまで素晴らしい政治家であった犬養の引退を許しませんでした。
それほど評価が高かった犬養が引退したことによって岡山で行われた選挙において、
支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させてしまった
のです。

その結果が、42年間・18連続当選という偉大な結果なのです。

犬養毅の祖先はあの…

犬養の苗字って、とっても珍しいですよね。

伝承によると、犬養の遠祖は吉備津彦命(きびつひこのみこと)に従った犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)であり、江戸時代には大庄屋を務めた豪家だったとされています。
遠祖である犬飼健命は吉備津彦命の随神であったとされ、吉備津神社への崇敬の念が非常に強かったとされています。
神池の畔には犬養毅の銅像が建っており、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫(毛筆で字や絵をかくこと)になっています。

この吉備津神社の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(岡山県南部吉備地方に伝わる古代の鬼)を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られています。
この伝承によれば、温羅は鬼ノ城を根城として地域を荒らしていましたが、吉備津彦命は犬飼健・楽々森彦・留玉臣という3人の家来と共に温羅を討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたとされています。
この伝説こそ、物語『桃太郎』のモチーフになったとされているのです。

つまり、犬養毅の祖先はあの桃太郎の子分の犬なのです。

まとめ

ここまで、『犬養毅』という政治家について見てきましたが、どうでしたでしょうか?

犬養の政治家としての活躍から、暗殺される際のかっこいい場面、そして祖先が犬だったこと等、様々な犬養の側面を見てきました。

犬養は、大正から昭和の戦前期にかけて活躍した、日本の歴史において欠かすことのできない政治家の一人です。
これをきっかけに、犬養毅に興味をもった方はどんどん調べてみましょう!

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