『いだてん』の田畑政治って?朝日新聞の記者だった?浜松の実家は?

現在放送されているNHKの大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』にも登場している『田畑政治』

俳優で歌手の阿部サダヲさんが演じており、大河ドラマにおいては第二部の主人公に位置付けられています。

実際の人物としては、教育家・新聞記者・水泳指導者であり、長きに渡って日本水泳連盟会長を務めた、日本水泳界の第一人者なのです。
また、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンとしても知られています。

ただ、田畑政治という人物についてしっかり知っている、という方は少ないんじゃないでしょうか?
大河ドラマで初めて知った、という方もきっと多いはずです。

この男がいなければ、東京オリンピックはなかった? 田畑政治の生涯

1898年(明治31年)12月1日、静岡県浜名郡浜松町成子(現在の浜松市中区成子町)にて生を受けます。
実家は造り酒屋だったとされています。

旧制静岡縣立浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業します。
その後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社します。
入社後は、政治経済部部長などを歴任し、1949年(昭和24年)に常務にまで昇進しました。

新聞記者としての側面を持つ一方で、田畑は水泳指導者としても活動していきます。
1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会では、日本代表の監督も務めました。

1939年(昭和14年)には、日本水泳連盟(当時の名称は大日本水上競技連盟)会長であった末弘厳太郎が大日本体育会(のちの日本体育協会)の理事長に就任します。
その就任を受けて、田畑も末弘を支えるべく、新たに設立された理事長に就任することになります。

戦後の1948年(昭和23年)には、日本水泳連盟の会長に就任します。
同年のロンドンオリンピック参加を断られてしまった当時の日本代表(古橋廣之進・橋爪四郎ら)の実力を証明するべく、日本選手権の決勝をロンドンオリンピックを同日開催としました。
こうした元来の策士っぷりを遺憾なく発揮し、翌1949年(昭和24年)の国際水泳連盟(FINA)復帰につなげるなどの大胆な組織運営を行いました。

その後も、田畑は1952年(昭和27年)のヘルシンキオリンピック、1956年(昭和31年)のメルボルンオリンピックと2大会連続で日本選手団の団長を務めました。

戦後間もないころから東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として以前から親交のあったフレッド・イサム・ワダなどの人物を招致委員に引き込むなどして、尽力しました。

1959年(昭和34年)に、1964年(昭和39年)の東京開催が決定すると、田畑もその組織委員会の事務総長に就任し、開催に向けて活動を行いました。
具体的には、正式種目に女子バレーボールを加えるロビー活動の陣頭指揮にも立ったとされています。

しかし、1959年(昭和37年)の第4回アジア競技大会で、ホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否してしまいます。
この対応によって、国際オリンピック委員会(IOC)が同大会を正規の競技大会と認めない、という姿勢を打ち出し、日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることとなってしまいます。
最終的には、日本選手団は(競技自体が中止された)重量挙げを除いて出場することにはなったものの、一連の問題の責任を取る形で、田畑はJOC会長・組織委員会会長の津島寿一と共に辞任することになりました。

1973年(昭和48年)には、青木半治の後継として第10代日本オリンピック委員会(JOC)委員長に就任します(1977年(昭和52年)まで)。

そして、1984年(昭和59年)に85歳で亡くなってしまいます。

浜松市には、田畑政治ゆかりの地がたくさん!

浜松市には、市内11ヶ所の田畑政治ゆかりの地に看板を設置しているそうです。

日本を水泳大国、そしてスポーツ大国にするために田畑政治が必死に泳ぎ続け、駆け抜けた足跡を辿ってみましょう。

田畑政治ゆかりの地①:田畑政治生家跡

先述の通り、田畑家は造り酒屋『八百庄』を営む浜松有数の資産家だったそうです。
当主は浜松商業会議所の設立や銀行事業にも携わっていました。

ちなみに、のちには浜松初の本格フレンチレストラン『オーク』へ業態転換しました。

田畑政治ゆかりの地②:浜松南尋常小学校跡(現・双葉小学校)

学童数の増加によって、1909年(明治42年)に浜松南尋常小学校は設立されました。

田畑自身は6年生の夏ごろから新校舎へと通うことになりましたが、成績抜群で実家も資産家だったので、浜松中学校(現在の浜松北高校)への進学を希望するようになったとされています。

田畑政治ゆかりの地③:浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)

1894年(明治27年)に開校となった浜松中学校。

田畑の成績はここでも飛びぬけて優秀であり、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学します。

浜松中学校の水泳部は、1928年(昭和3年)から全国3連覇を果たし、1932年(昭和32年)には在学中の宮崎康二がロサンゼルスオリンピックで2冠を達成することになります。

田畑政治ゆかりの地④:浜松市営元城プール跡(現・浜松城公園芝生広場付近)

市営プールの建設決定を受けて、当時日本水泳連盟会長であった田畑が1950年(昭和25年)に日米対抗の水泳大会の浜松での開催を発表します。
4ヵ月での突貫工事を経て、50m9コース、12,000人収容可能な国内有数のプールを竣工させ、日米交歓水上大会が開催されました。

田畑政治ゆかりの地⑤:田畑家の弁天島別荘跡

1889年(明治22年)の東海道鉄道全通によって、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を持つようになりました。

田畑家も弁天橋のたもとに別荘を造りました。
田畑は、その別荘の目の前にある浜名湖で自然に泳ぎを覚えることになり、幼少時から水泳に高い関心を持つようになったのでした。

田畑政治ゆかりの地⑥:浜名湖弁天島茗荷屋旅館跡

1902年(明治35年)創部の浜松中学校水泳部は、茗荷屋旅館を借りて、古式泳法・遠泳・飛び込み・水上運動会といった水泳訓練を行っていました。

この旅館が生家の堀江耕造は、浜松中水泳部の中心人物であり、浜名湾の会長や日本水泳連盟副会長なども歴任しています。

田畑政治ゆかりの地⑦:浜名湖弁天島100mプール跡

1921年(大正10年)、浜名湾游泳協会幹事で資産家の長谷川鐵雄が長さ100m・幅30mの海水プールを建設しました。
ここでは浜名湾全国競泳大会が開催され、第2回大会で浜名湾勢は日本一を獲得しました。

当時、全てが巨大な施設だった楽園は大賑わいだったそうです。

田畑政治ゆかりの地⑧:古橋廣之進生家跡

田畑と師弟関係にあった古橋廣之進は、1928年(昭和3年)9月16日に9人兄弟の長男として誕生します。

父親は体格が良く力持ちで、古橋自身も相撲取りを目指していたそうです。
普段から弟や妹の面倒を見つつ、手伝いなども主体的に行うようになりました。

田畑政治ゆかりの地⑨:雄踏尋常高等小学校

田畑が目を掛けた古橋は、4年次に山崎分校から本校に移りました。

学校でもリーダーシップを遺憾なく発揮しており、浜名湖のプールでは連日無我夢中で泳ぎ続けたそうです。
6年次には、100mと200mの自由形で全国学童新記録を樹立しました。

田畑政治ゆかりの地⑩:山崎プール跡

田畑が惚れ込んだ古橋の水泳のルーツは、地元の篤志家が浜名湖の一角を板で仕切って造ったスタンド付きの50mプールにあります。

今でも顕彰碑が存在し、
『力泳三十年』
『水泳から『努力』『我慢』『克己』を学んだ』
と刻まれています。

田畑政治ゆかりの地⑪:浜名湖大遠泳

文武両道を掲げていた浜松中学校(現在の浜松北高校)では、弁天島までの夏の水泳訓練が慣例となっていました。
締めは、村櫛から気賀までを縦断する大遠泳です。

水泳時間は6時間を優に超え、完泳率は4割以下となっていましたが、田畑は1年次から5年次まで完泳を続けました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です