ドラマ『いだてん』で有名な高橋是清とは?経済政策や暗殺でも有名?

多くの人が中学・高校の日本史の授業で、
『高橋是清(たかはしこれきよ)』の名は聞いたことがあるのではないでしょうか。
大河ドラマ「いだてん」にも登場した、
第20代内閣総理大臣を務めたこともある人物です。

しかし、多くの人が首相としての業績より、
7回務めた大蔵大臣(戦前における財務大臣)としての業績を高く評価しています。
また、国民からは愛嬌のある丸顔と立派な髭の外見で親しまれ、
ダルマ宰相の愛称で呼ばれていました。

明治・大正・昭和初期を生き抜いてきた政治家・財政家であった、
高橋是清とはいったいどんな人物だったのでしょう。

経済政策といえばこの人!

流行語にもなった『アベノミクス』、これは安倍晋三首相が打ち出した、
厳しいデフレ状態から脱却するための大胆な金融政策です。

高橋是清も同様にデフレ状態の解消を目指し、
大蔵大臣として積極政策を行った人物になります。

ここで、高橋是清の大蔵大臣としての活躍を簡単に見ていきましょう。

1920年代、第一次世界大戦に伴う好景気が戦争の終了と共に終わりを迎え、
輸入超過・株式市場の暴落による戦後恐慌が起きていました。
また、この戦後恐慌に関東大震災が重なったことで銀行への激しい取り付け騒ぎが起き、
多くの銀行が休業に追い込まれるなど金融恐慌も起きてしまいました。

この金融恐慌を受けて成立した田中義一内閣において、
3度目の大蔵大臣に就任した高橋是清は、3週間の支払猶予令を出し、
その間に片面印刷の紙幣を大量に発行することで預金者を安心させ、
取り付け騒ぎを鎮めることに成功しました。

こうした1920年代の再三の恐慌に際して、
日銀券の増発によるインフレが進んでいた日本経済は国際競争力を弱めていました。
これを解決すべく、時の浜口雄幸内閣は井上準之助蔵相のもと
産業合理化や緊縮財政による物価引き下げを図ったのです。

しかし、永遠の繁栄を謳歌していたアメリカに衰退が見え始めたことによる
世界経済の動揺、俗にいう世界恐慌が起こりました。
この恐慌は、日本にも影響を及ぼし、
物価や株価の急速な下落、産業の縮小が発生してしまいました。
それにより、倒産が相次ぐことで、失業者が街頭に溢れることになります。

1931年に犬養毅内閣が成立すると、高橋是清が4度目の大蔵大臣に就き、
世界恐慌からの脱出が託されたのです。
ここで行った政策こそ、最初に触れたデフレ脱却政策です。
前任の井上準之助による緊縮財政に反対し、
低為替・低金利・財政支出拡大の政策を取りました。
これによって、日本は世界で一番早く世界恐慌を抜け出すことができたのです。

二・二六事件

『二・二六事件』という言葉も、日本史を習っていれば
必ずといっていいほど習う単語です。
簡単にその事件を説明すると、
1930年代に軍部、特に陸軍の政治的発言力が増してきており、
急進的な青年将校たちが1400人余りの兵を率いてクーデターを起こし、
政府関係者の重鎮たちの邸宅や警視庁を襲撃した事件です。

この事件によって、大蔵大臣であった高橋是清も暗殺されてしまいます。
高橋是清が世界恐慌から抜け出すために行ってきた積極財政は
赤字公債が増え続けてしまうため、景気回復が鮮明になったころから
積極財政から緊縮財政へと方向転換を行いました。

しかし、これは陸軍の予算削減が含まれていたこともあり、
中国大陸への進出拡大を狙っていた軍部の恨みを買ってしまったのです。
高橋是清がこの事件に巻き込まれることなく生き続けていたら、
日本の第二次世界大戦への道は遅れる、
もしくは参戦自体がなかったのではないかと語る人もいます。

数々のお金の失敗

今まで見てきたように、高橋是清は経済政策において高い評価を受けています。
しかし、あまり知られていないことですが、
若いころに数々の失敗を経験してきているのです。
こうした失敗を通して、後に活躍する際に発揮された経済感覚を磨いたのでしょうか。

小さいころから、米国人医師であるヘボンの私塾に入門し、
英語を学んでいた高橋是清は13歳のころにアメリカに留学しました。
しかし、渡米の手配を頼んだアメリカ人貿易商に学費と渡航費を騙し取られます。

さらに、ホームステイ先でもトラブルになり、
サインさせられた書類が奴隷労働の契約書でした。
こうして、いまだ人身売買が行われていたアメリカにおいてブドウ園などで働くなど、
働きながらの苦学を余儀なくされました。

帰国後も、英語教師となった高橋是清は、
後輩たちの借金を当面の間肩代わりをしてあげようとします。
しかし、そのお礼に連れて行ってもらった芸者屋にはまって職を失い、
借金もずっと残ってしまうなど、典型的な失敗すら経験しているのです。

他にも牧場経営、米相場に手を出しては失敗し、
農商務省職員時代にはペルーの銀山事業を誘われ、職を放り出し銀山開発に取り組むと、
枯れ果てた鉱山であったことが判明してしまうのです。

こんなことを繰り返していた高橋是清は、
借金まみれで餓死寸前まで追い込まれてしまったそうです。

そんな高橋是清も、日本銀行に入行すると、その頭角をようやく現し始め、
日露戦争の際には、戦費調達のための外債発行に成功しています。
日露戦争は日本が不利とされており、日本政府の支払能力などから投資家たちは
当初消極的であったにもかかわらず、高橋是清が説得したことによって
戦費調達に成功したため、高橋是清の評価を高めた出来事といえます。

後に日本銀行第7代総裁を務めるまでになった高橋是清も、
若いころは様々な失敗を経ているのですね。

高橋是清の逸話

お酒大好き

高橋是清はお酒が大好きなことで有名です。

高橋是清がお酒を飲み始めたのは十代前半といわれています(お酒は20歳からですよ)。

英語教師時代に吐血するほどお酒を飲み、生徒から尊敬を受けていたそうです。
また、大臣になってからも
衆議院の会議中にお酒を飲んでいたという伝説も残っています。

開成中学・高校の創設者??

開成高校の創設者といえば、皆さん誰を思い浮かべるのでしょうか。
やはり、高橋是清の名を一番に挙げる人が多いと思います。

しかし、実は創設者は高橋是清ではないのです。
創設者の名前は佐野鼎(さのかなえ)といいます。
佐野が若くして亡くなった後、初代校長として就任したのが高橋是清なのです。

初代校長である高橋是清の教育理念をいまだに色濃く引き継いでいるからこそ、
多くの人は開成中学・高校の創設者として高橋是清の名を挙げるのでしょう。

実は紙幣に描かれている!

高橋是清は実は紙幣に描かれていたことがある、
ということを知っている人はどれくらいいるでしょうか。

戦後、昭和26年に50円札が発行されました。
高橋是清が印刷された紙幣はこれだけであり、
しかも50円札発行の4年後には50円硬貨が登場してしまいます。
高橋是清の描かれた50円札は、昭和33年には発行停止になった幻の紙幣といっても過言ではないかもしれませんね。

まとめ

ここまで、高橋是清についてみてきましたがどうでしたか?

高橋是清は経済政策で大活躍し、歴史に名をのこした偉大なる政治家、財政家です。
とくに1920年代から30年代にかけての幾度も起きた恐慌に対し、日本を最速で脱出さるための政策を次々と行い、日本経済を引っ張ったことは偉大なる功績です。
恐慌が起きると、引退していた80歳を超えた身であっても大蔵大臣としてその手腕をふるうことを期待された高橋是清だからこそ、二・二六事件で暗殺されてしまったことは大きな損失となったのです。

そんな、偉大なる一面を持ちつつ、若かりし頃は失敗を何度も経験してきたその波乱万丈な人生を生き抜いた高橋是清にさらに興味をもった人もいるのではないでしょうか!

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